アイユーブ朝

アイユーブ朝(大アイユーブ朝1169年~1250年、最後の地方政権のハマ・アイユーブ朝は1342年まで存続、الأيوبيون、Ayyubid)は、エジプト、シリア、メソポタミアなどを支配したイスラム系の王朝。王朝名の「アイユーブ」は創始者の父の名に由来する。なお、アイユーブはもともとは旧約聖書ヨブ記の義人ヨブのアラビア語形である。

サラーフッディーンの王朝創設と治世

1169年、サラーフッディーン(サラディン)が、ファーティマ朝の軍最高司令官と宰相の地位を兼任し、年内までにエジプトにおける全権を掌握して、アイユーブ朝を創設した。1171年、ファーティマ朝の第14代カリフ・アーディドが死去すると、ファーティマ朝を完全に滅ぼし、名目上はアッバース朝に臣従するという形式のもとにスルタンを称した。このため、アイユーブ朝の成立は1171年説もある。

その後しばらくは内政に専念したが、1174年にかつて自身が仕えていたザンギー朝のスルタン・ヌールッディーンが死去すると、そのもとから独立してシリアに侵攻し、同地を併合してエジプト、シリアに広大な支配圏を築き上げたのである。

1187年、十字軍の休戦協定違反を契機としてサラーフッディーンはエルサレム王国に侵攻し、7月に有名なハッティンの戦いで十字軍に大勝し、10月には約90年ぶりのエルサレム奪回を果たしたのである。このため、1189年からイギリス王・リチャード1世を中心とした第3回十字軍の反攻を受けたサラーフッディーンは、十字軍にアッコンを奪回されるなどの苦戦を強いられたが、十字軍の猛攻によく耐えて1192年、和睦を結ぶにいたった。この和睦により、エルサレムをはじめとする領土のほとんどはアイユーブ朝の支配圏として確立することとなり、十字軍はシリア沿岸にわずかな領土を有するまでに没落してしまい、往時の力を失うこととなったのである。

その後、サラーフッディーンは1193年、ダマスカスにて病死した。

サラーフッディーン死後の混乱

サラーフッディーンの死後、スルタン位は次男のアル・アジーズが継いだ。しかし、サラーフッディーンは17人の息子に分割相続させてしまったため、兄弟内における権力闘争が起きることとなる。アル・アジーズにはこの権力闘争を抑制できる力は無く、1198年に不慮の死を遂げている。

アル=アジーズの死後、王朝の主導権はサラーフッディーンの弟・アル・アーディルが掌握し、サラーフッディーンの長男であるアル・アフダルをはじめとする息子たちの権力闘争を抑えて、1202年にスルタンとして即位した。

アル・アーディルとアル・カーミル父子の治世

アル・アーディルは西欧諸国との融和を図り、十字軍との休戦協定の更新を行なった。さらにベネチア共和国と貿易を行なって経済交流を積極的に奨励するなど、アイユーブ朝の発展に尽力した。このため、アーディルの在位中は十字軍との関係も良好で、平和が訪れたのである。

しかし1218年、第5回十字軍が来襲してくるとアーディルは心臓発作のために死去し、その後を息子のアル・カーミルが継いだ。カーミルは十字軍にダミエッタを支配されるなど一時は劣勢に立たされたが、1221年に反攻して大勝した。だが、エジプト国内でカーミルの継承に不満を持ったアイユーブ朝の王族による内紛が起こったため、カーミルは十字軍に対応するどころではなくなり、1228年にエルサレムを十字軍に譲渡することで和睦し、国内の反乱に全力を向けた。このため、反乱は鎮圧されたが、エルサレムの放棄は王朝にとって大きな損失ともなったのである。

滅亡

1238年、アル・カーミルが死去し、その1代の後を置いて継いだ次男のサーリフは、1239年にエルサレムを奪回した。しかし、この対外戦争における過程でアッサーリフが用いたアジアからの奴隷兵であるマムルーク軍団の台頭が始まるようになり、1250年、アイユーブ朝のスルタン・トゥーラーン・シャーが、先代スルタン・サーリフの夫人であったマムルーク軍団の指導者のシャジャル・アッ=ドゥッルに殺害されることで、アイユーブ朝は滅亡した。

その後、アイユーブ朝の残存勢力はハマに拠点を置く一地方政権として、14世紀まで細々と命脈を保った。

アイユーブ朝の国制

アイユーブ朝の王朝組織は、前王朝のファーティマ朝と同じように簡素なものであった。主な官庁は宮内庁、軍務庁、法務庁などであり、その中でも軍務庁が地方行政において重きを成した。また、サラーフッディーンの治世により、ナイル川の整備や用水路の新設、そして農業の奨励などでエジプト国内は充実し、国際貿易の中心地になったと言われている。